ご近所付き合い

「東京の人間は、他人に無関心だ」

 

まあ、よく聞く言葉である。

もしそれが本当だとしても、別に悪いことではない。私は、他人との距離は適度に保ちたいタイプなのでむしろ居心地が良い。

恐らくアメリカに移住したら、あの機関銃のように放たれる"How are you?"からの小粋なトーク文化で息絶えるに違いない。青白い顔をしながら "fine, man"と言い残しこの世を去るだろう。

 

さて、私はとあるマンションに三年住んでいるが、実は新築の段階で契約をした入居者第一号である。つまり、「ファースト・マン」「ザ・ボス」といった立ち位置であり、今あるマンションは私が育てたと言っても過言ではない。

そんな私は、如何に東京砂漠と言えども最低限のマナーは必要だという意識から、マンションの後輩たちや清掃のおばちゃんに対して「おはようございます」「こんにちは」「こんばんは」の基本三原則を欠かしたことはない。

 

「立派な男」である。

 

ところがだ。

私のワンフロア上の住民に輩がいる。


何回も、何十回も挨拶をしてるのに、挨拶を返してこないのだ。


狭いエレベーターの中で「おはようございます」を発し、返答がない時の気まずさ。筆舌に尽くしがたい。

いい加減腹が立ったので、一度ドアが閉まった後のエレベーターの中で向かい合わせに立ち、正面切って挨拶をした。

 

 

果たして返事はなかった。

SEALsなみの精神力の強さである。

 

 

よくよく思い返せば、上述の彼は異常であるが、他の殆どの住民も私から挨拶をしないと何も言ってこない。

やはり、東京の人間は他人に無関心なのだろうか。

 

 

 ところがだ。他人に対する荒探しとなると彼らは執念を燃やすらしい。

 

一度、荷物を運ぶためにマンションの前に車を止めたことがある。前といってももちろん出入りの邪魔にはならない位置だ。クロネコヤマトだってしばしば止めている。

そしたらなんと翌日。マンションの管理会社名義で、「マンションの前に車を止めないでください。他の住民の方からクレームが入っています。」と怪文書が届いたのだ。

正直、戦慄した。駐車時間は正味30分程度であったのに、その短時間で私を特定し、管理人に通報した人がいるのだ。

その情報収集力の高さたるや。内諜か公安の人でも住んでいるのかと唸らされた。

 

もう一つ通報されたエピソードが。

二年前、海外での仕事から2か月程ぶりに帰ってきたときのことだ。

帰宅の翌日、マンションの管理会社から「他の住民の方から、物音がうるさいとクレームが入っています」と電話がきたのだ。


物音が、うるさい


おかしい。

私は常識的な時間帯にて普通の人がやるような営みしかしていなかったはずだ。

そうとなれば、自分の家なのにコソ泥のようにつま先立ちで過ごせというのか。


正直この時ばかりは呆れ果て、「久しぶりに家にいるので、そりゃ相対的にうるさくなるでしょうよ」と管理会社に訴えたのを覚えている。


きっとあの日は、部屋の中で屁をこいただけでも通報されたであろう。

 

 

 

このように中々愉快な住民たちに囲まれながらの生活であるが、一度だけ私自身も他の住民に嫌な思いをさせてしまったことがある。

 

 

ある湿度の低い日。

マンションのエレベーターにて。

 

 

私は生来、唇が乾燥しやすく、その日も安定して唇が渇ききっていた。

水分を失った唇はひび割れて血が滲みうるということは誰もが知っているが、まさにその状態である。

私はエレベーターに乗ってから、唇の状態が気になって仕方なかったので、指を当てて血が付着するか否かをチェックすることにした。

 

と、その時である。エレベーターのドアが開いたのは。

 

どうやら途中のフロアで止まったらしく、ドアの向こうにはマンション唯一の金髪外国人女性が立っていた。

が、彼女の様子がおかしい。

目は大きく見開かれ、あろうことか "Oh..."と一言。

 

 

聡明なワタクシは、0.8秒で何が起こったのかを理解した。

 

 

要は、唇の状態チェックの仕方がまずかったのである。

私は、 人差し指と中指の二本を唇に当て、放し、血に染まっていないかを確認していた。

その唇から指を放した丁度その瞬間、ドアがオープンしたのだ。

彼女から見る私の行動、それは・・・

 

 


完全に、投げキッス。

 

 


恐らく彼女はマンションに引っ越してきてからまだ日が浅い。

いくら他の住民と交流したくともそんな機会はないし、彼らは無口だ。

(ヤハリ TOKYO PEOPLE ハ ツメタイノネ。ウワサニハ キイテイタノダケレドモ)

特段会話なんてないし期待もしちゃいない。

そんないつも通りの平凡な朝に、彼女は突如として投げキッスをされたのだ。あろうことにマンションのエレベーターで初めてあった奴に。

 


国が国であれば訴訟ものである。

 

 

さて話は戻すが、その直後のワタクシと彼女である。

さすが、欧米系女性と言うべきか。

すぐに立て直し、にこやかに「オハヨウゴザイマス」と言いながら、何事もなかったかのようにエレベーターに乗ってきたではないか。

こちらと言えば、「いや、実はですね、先ほどの行動は投げキスじゃないんですよ。あれは唇から血が出ていないかどうかの状態チェックでして、ええ、本当に誤解なのですよ。すみませんね、驚かしてしまいまして。ところで貴女はお綺麗な方ですね。」というのを英語にリフレーズすることにメモリを使い果たしていた。

 

結局、「あ、おはようございます」としか言葉は発せず、誤解を解くことはできなかった。

 

 

 





そんな彼女が今の私の奥さんです。

 





 

 

・・・なんて展開になるわけもなく、未だに会う度に気まずい思いをしている。